
この記事で紹介している場所: サマルカンド
サマルカンドのシャーヒ・ズィンダ廟群:歴史、伝説、訪れ方
門をくぐり、急な階段を上ると、廊下ほどの幅しかない小径が開けます。両側には、ターコイズ、コバルト、白のタイルをまとった霊廟が並びます。アミール・ティムール(タメルラン、1336〜1405年)は、サマルカンドを都としたティムール帝国の創始者。シャフリサブス近郊の生まれです。の姉妹の廟、姪の廟、妃の廟、そして将軍たちの廟。いちばん奥、彫刻を施した木の格子の向こうには、この通り全体がその周りに生まれた人物が眠っています。サマルカンドの人々は彼を「生ける王」と呼びます。
私たちのガイドは毎週のようにお客様とこの小径を歩きますが、今でも同じ場所で思わず足が遅くなります。ここでは、私たちが語るご存じですか? シャーヒ・ズィンダが「生ける王」と呼ばれるわけ この霊廟群は、預言者ムハンマドのいとこクサム・イブン・アッバースの聖廟を中心に広がりました。伝説では彼は戦死せず、深い井戸を下って楽園の庭へ行き、今も生きているといいます。 詳しく見る →をご紹介します。「生ける王」とは誰だったのか、誰がどこに眠るのか、伝説(伝説であることを明記します)、タイルの作り方、2005年の修復で何が変わったのか、そして訪問の計画の立て方です。
「生ける王」とは誰か:クサム・イブン・アッバース

クサム・イブン・アッバース(クサムやクタムとも表記されます)は預言者ムハンマドのいとこで、父アッバースは預言者の叔父にあたります。カリフ・アリーの下でメッカを治めました。676年にはアムダリヤ川の彼方の地へ向かうアラブの遠征に加わり、サマルカンドにとどまって677年頃に亡くなりました。正確にどこで、どのように亡くなったのかは、今も歴史家の間で議論が続いています。
11世紀までには、彼のものと信じられた墓の上に霊廟が建ち、その周りに廟群が広がっていきました。隣には巡礼者のための部屋ズィヤーラトハーナと、小さな地下の祈りの部屋チッラハーナがあり、チッラハーナには今もミフラーブが残っています。16世紀までこの場所は単に「王の廟」と呼ばれており、「生ける王」を意味するシャーヒ・ズィンダという名はその後に生まれました。
伝説:死ななかった王
これは歴史ではなく伝説で、サマルカンドにはいくつもの語り口があります。最もよく知られた話では、金曜礼拝の最中に敵が町を襲い、クサムの首をはねました。彼はその首を拾い上げて深い井戸の中へ歩いて入り、今もそこで生きているといいます。別の話では、矢を受けた彼が身を隠すために井戸へ這い込みました。三つ目の話では、イスラームの伝承に登場する不死の放浪者ヒズルが、彼を丘の下の通路へと導いたとされます。
この物語は古くからあります。1330年代初めにサマルカンドを訪れたモロッコの旅行家イブン・バットゥータは、町の聖地のうちこの聖廟だけを書き残しました。サマルカンドの人々が毎週夜にここを参詣に訪れること、そして彼がタタール人と呼んだモンゴル人が、牛や羊、銀貨や金貨といった豊かな供物を携えてきたことを記しています。
アフラシアブの斜面に続く霊廟の通り

廟群はご存じですか? 7世紀の壁画に描かれた朝鮮半島からの使節 1965年の道路工事で見つかったアフラシアブの「使節の壁画」には、絹を携えた唐の使節などが描かれ、鳥の羽根を冠に挿した2人は高句麗の使節と考えられています。 詳しく見る →の南斜面を上っていきます。アフラシアブは、紀元前500年頃から1220年のモンゴル侵攻までサマルカンドの町があった丘です。ここに建てられた最初の建物は、霊廟や1066年に建てられた王立イスラムの学院。壮麗な正門の奥に中庭があり、その周りに学生の居室と教室が並びます。旧市街では、今は博物館や工房として使われているものも多くあります。など、カラハン朝の時代にさかのぼります。丘の発掘では11~12世紀の霊廟も見つかっています。
その後、町は南へ移りましたが、聖廟はこの地に残りました。1350年代から、サマルカンドの有力者たちはできるだけ聖者の近くに自らの墓を築きました。現在、11~15世紀と19世紀の建物が20以上あり、下・中・上の三つのグループに分かれ、四つのアーチに載ったドーム付きの通路、チャルタクで結ばれています。入口は坂の下にあり、ご存じですか? ウルグベクは1年の長さを誤差25秒で測った ウルグベクはサマルカンドの天文台で太陽年を365日5時間49分15秒と算出しました。誤差はわずか約25秒で、1世紀後のコペルニクスより正確でした。 詳しく見る →の治世の1434~1435年に建てられた門をくぐります。
誰がどこに眠るのか:ティムールの一族とアミールたち

建物の多くは1350年以降に建てられた一室だけの霊廟で、その多くはティムール一族の女性たちや、彼の軍の指揮官であるアミールたちのためのものです。見ておきたいのは次の霊廟です。
シャーディ・ムルク・アカ廟(1372年):母の悲しみ
ティムールの姪シャーディ・ムルクは1371年12月に亡くなりました。母であるティムールの姉クトゥルグ・トゥルカン・アカが娘のためにこの廟を建て、これがサマルカンドにおけるティムール治世最初の建物となりました。床下には二つの墓室があり、母と娘がともにここに葬られたという記録と一致します。入口を囲む詩句は若くして亡くなった娘を悼むもので、その一節は廟を庭に、娘を失われた真珠になぞらえています。
職人たちは作品に署名を残しました。サマルカンドのシャムスッディーンとバッルッディーンは正面アーチの壁龕に名を刻み、ブハラの陶工ザイヌッディーンは彫刻を施した柱の基部に署名しています。
シリン・ビカ・アカ廟とアミールたち
向かいには、ティムールの姉妹シリン・ビカ・アカの霊廟が建っています。1385~1386年の建立で、シャーディ・ムルク・アカ廟とともに、廟群の中で最も保存状態のよい二つの建物のひとつです。その周りには、アミール・ザーデ廟として知られる墓(1386年)、ティムールの指揮官のひとりアミール・ブルンドゥクの霊廟(1380年代)、そして15世紀初めの八角形の霊廟「オクタゴン」があります。さらに上には、ティムール以前の1340年代にさかのぼるホジャ・アフマド廟と、名前の伝わらない貴婦人のために1360~1361年に建てられた墓があります。
トゥマン・アカ廟(1405年):壁に描かれた風景
最上部の近くには、ティムールの妃のひとりトゥマン・アカの複合体があり、霊廟と小さな記念モスクがつながっています。正面はモザイク・ファイアンスで、青いタイルに金で文様が描かれています。内部では、小川や木々、鳥を描いたパネルを探してみてください。トゥマン・アカ自身がここに眠っているのかは誰にもわかりません。墓室は建築の瓦礫で埋まった状態で見つかり、ティムールの死後、彼女はサマルカンドから遠ざけられたからです。
双ドーム廟:天文学者は本当にここに眠るのか
下のグループには、ウルグ・ベクの時代、15世紀の最初の3分の1に建てられた二つのドームを持つ霊廟があります。案内板やガイドブックでは、レギスタン広場のウルグ・ベク・マドラサで教えた天文学者カーディー・ザーダ・ルーミーの墓とされています。この名は1940年代からソ連の書物で定着しましたが、根拠は伝承だけです。
別の伝承では、この墓はティムールの乳母とその娘ビビ・ザイナブのものとされますが、どちらも同時代の史料には登場しません。現在では多くの研究者が単に「双ドーム廟」と呼んでおり、私たちのガイドもそう呼んでいます。
施釉テラコッタ、マジョリカ、モザイク:タイルの読み解き方

シャーヒ・ズィンダは、ティムール朝のタイル装飾の教科書のような場所です。短い小径ひとつに沿って、彫刻施釉テラコッタ、マジョリカ、上絵付け、単色の施釉タイル、タイルモザイクが見られます。タイルは単なる装飾ではなく、その奥の焼成レンガを暑さや霜、雨、砂ぼこりから守る役割も果たしていました。
- 彫刻施釉テラコッタ。粘土板に文様を深く彫り込み、釉薬をかけて焼成します。光と影が仕上げの半分を担う技法です。最高の作例はシャーディ・ムルク・アカ廟のファサードで、緑とターコイズを基調に、ターコイズや濃紺の地に白い銘文が浮かびます。
- マジョリカ。絵付けを施した施釉タイルです。シャーディ・ムルク・アカ廟の内部はほぼ全面がマジョリカで、深い青の地に鮮やかな文様が広がります。
- モザイク・ファイアンス。単色の釉をかけたタイルを小さく切り、パズルのように組み合わせます。ティムール朝の職人たちが1390年代以降に完成させた技法で、その最高傑作のいくつかがここにあります。トゥマン・アカ廟の正面をご覧ください。
- 施釉レンガ。釉をかけたレンガと素焼きのレンガを幾何学文様に積んだもので、オクタゴンに見られます。
私たちのおすすめ:シャーディ・ムルク・アカ廟(1372年)とトゥマン・アカ廟(1405年)の間に立ってみてください。わずか33年の間に、サマルカンドのタイル職人は「彫る」技法から「切る」技法へと移りました。その変化のすべてを、ほんの数歩の間で見ることができます。
階段と、段を数える習わし

門を過ぎると、急な階段が丘を上って中央のグループへと続きます。巡礼者であれ観光客であれ、訪れる人は誰もが遅かれ早かれ段を数え始めます。
民間信仰:二度数える
これは歴史ではなく民間信仰です。言い伝えによれば、この階段は40段あり、悔い改めと祈りの道を表しているといいます。上りに数え、下りにもう一度数えてみてください。二つの数が一致すれば、罪が赦されるとされます。ぜひご自身で数えてみてください。出た数もまた体験の一部です。
別の伝説によれば、かつて巡礼者たちは40日をかけて1日に1段ずつ上り、各段で祈りを捧げたといいます。ブハラのスーフィーの師バハウッディーン・ナクシュバンドもそうしたと伝えられています。彼が最上段にたどり着いたとき、白馬に乗った騎手が彼に向かって駆けてきて、すぐ手前で止まり、彼に問いかけてから消えました。その騎手こそクサム・イブン・アッバース本人だった、と物語は伝えています。
今も続く巡礼の地
シャーヒ・ズィンダは中央アジアで最も崇敬される聖地のひとつで、地元の家族にとっては、記念建造物である以前にまず祈りの場所です。木曜から金曜にかけての夜は、伝統的にここで夜の祈りを捧げる時とされてきました。クサムの墓の前で立ち止まり、祈りを唱え、静かに去っていく人々の姿を目にするでしょう。ウズベキスタンの聖地については、ズィヤーラトと聖地のガイドで詳しくご紹介しています。
修復:古いタイル、新しいタイル、そして2005年の論争

シャーヒ・ズィンダを写した最も古い写真は、1870年代初めにトルキスタン・アルバムのために撮影されたもので、人けのない丘の斜面に、むき出しのドームと崩れたファサードが写っています。発掘は1922年に始まりました。1957年からは考古学者ニーナ・ネムツェワが廟群を体系的に調査し、2001年までここで研究を続けました。同じ2001年、シャーヒ・ズィンダは「サマルカンド-文化交差路」の一部としてUNESCO世界遺産に登録されました。
2004年、政府の政令により大規模な修復が始まり、2年足らずで完了しました。工事では、モスクや11世紀のマドラサなど、より古い建物の基礎が見つかりました。
その急ぎぶりは批判を招きました。2005年、世界遺産委員会はセメントや鉄筋コンクリートの多用を含む工事の規模に深い懸念を表明し、工事の中止を求めました。その1年後には、真正性が部分的に失われたと指摘しています。ウズベキスタン自身の報告書も、拙速さが一部の細部の質を損なったことを認めました。ティムール朝時代のオリジナルのタイルの多くが、新しいタイルに置き換えられています。
私たちのおすすめ:新旧のタイルを見分けられるようになりましょう。古いタイルは色合いがやわらかく、釉が擦り減り、縁がわずかに不揃いです。新しいタイルはより鮮やかで、完璧に整っています。古いタイルを見つけるなら、シャーディ・ムルク・アカ廟とシリン・ビカ・アカ廟がいちばんです。
ご存じでしたか?
- クサム・イブン・アッバースの複合体にある彫刻を施した木の扉は1404~1405年のもので、かつては象牙がはめ込まれていました。
- 入口門に加えられたコーランの章句は、神の道において殺された者は死者ではなく生きている、と語ります。シャーヒ・ズィンダという名と同じ考え方です。
- イブン・バットゥータがこの聖廟を見たのは1330年代初め。その隣にティムール朝最初の霊廟が建つ40年ほど前のことです。
年表で見るシャーヒ・ズィンダ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 676–677 | クサム・イブン・アッバースがサマルカンドを訪れ、この地で没する |
| 11世紀 | 彼のものと信じられた墓の上に霊廟が建つ |
| 1066 | カラハン朝の王立マドラサ |
| 1330年代初め | イブン・バットゥータが聖廟を記述 |
| 1340年代 | ホジャ・アフマド廟 |
| 1372 | シャーディ・ムルク・アカ廟 |
| 1385–1386 | シリン・ビカ・アカ廟 |
| 1404–1405 | トゥマン・アカ複合体、クサム複合体の彫刻扉 |
| 1434–1435 | ウルグ・ベクの治世に入口門が建つ |
| 1870年代初め | トルキスタン・アルバムのための最初の写真撮影 |
| 1922 | 発掘開始 |
| 2001 | UNESCO世界遺産に登録 |
| 2004–2005 | 大規模修復 |
シャーヒ・ズィンダ訪問ガイド:チケット、開館時間、私たちのおすすめ
- チケット:門のそばの窓口で販売しています。料金は窓口でご確認いただき、スム建ての現金を少しお持ちください。ウズベキスタンでのカードと現金についての記事もご覧ください。
- 開館時間:窓口でご確認ください。私たちは開門と同時に訪れます。
- 所要時間:1~1.5時間。
- 服装:ここは聖地です。どなたも肩と膝を覆い、女性はスカーフを着用し、声は控えめに。詳しくはウズベキスタンの服装ガイドをご覧ください。
- 光:早い時間に訪れましょう。小径は静かで、タイルに当たる光はやわらかく、夏は朝だけが一日のうちで涼しい時間です。
- 写真:小径や階段での撮影は問題ありません。祈っている人を撮影することは絶対に避けてください。
- アクセス:ビビ・ハヌム・モスクの前を通って徒歩約800m。アフラシアブ博物館はそこからさらに1kmほど先です。
- 私たちのおすすめ:まず最上部まで上り、それからゆっくり下りてきてください。全体の配置がわかってからのほうが、タイル装飾をよく読み解けます。
サマルカンドはタシケントからウズベキスタンの高速列車。タシケント〜サマルカンドは2時間30分、タシケント〜ブハラは約4時間。乗車券はパスポートに紐づけられています。 詳しく見る →号で2時間30分です。タシケントからサマルカンドへをご覧ください。廟群を旅程に組み込むには、サマルカンドを1日・2日・3日で巡る、サマルカンドの見どころ、チケット、開館時間、そしてサマルカンド都市ガイドをお読みください。ガイド付きなら、シャーヒ・ズィンダはサマルカンドハイライトツアーやその他のサマルカンドツアーに含まれています。
まとめ
- シャーヒ・ズィンダは、677年頃にサマルカンドで亡くなった預言者のいとこ、クサム・イブン・アッバースのものと信じられた墓の周りに発展しました。
- 「生ける王」は伝説です。伝説によれば、クサムは自らの首を手に井戸へ入り、今もそこで生きているといいます。
- ティムールの姉妹、姪、妃、そしてアミールたちが、ひとつの小径に沿って20を超える建物に眠っています。
- 彫刻テラコッタ、マジョリカ、モザイクが隣り合って並び、2004~2005年の修復では多くの古いタイルが新しいものに置き換えられました。
- 早めに訪れ、聖地にふさわしい服装で、階段は上りと下りの両方で数えてみてください。



